家庭菜園を始める前、僕と妻の会話は毎日似たようなものだった。仕事の話、天気の話、明日の食事、そのくらい。決まりきった話が多かった。でも今は違う。毎日、妻から畑の様子について話しかけられるようになった。その話を聞く楽しみが、毎日の帰宅を心待ちにさせてくれる。
「今日、キュウリが大きくなってたよ」「トマト、収穫できたよ」「茄子の芽が出てきたよ」。こんなふうに、毎日のように妻から野菜の報告を受けるようになった。以前は聞く機会のなかった言葉たちだ。妻のほうが、実は家庭菜園にのめり込んでいるのかもしれない。その報告を聞くたびに、僕も一日の疲れが吹き飛ぶ。妻の声に幸せが込もっているのが感じられる。
妻は僕よりも毎日、畑に足を運んでいるようだ。朝の水やりの時間、昼間に植物の様子をチェック、夕方もう一度見に行く。細かい気配りと観察力では、僕より上だと思う。小さな変化に気づくのは妻のほうが早い。蕾がつきました、花が咲きました、そういう報告も妻からが多い。毎日、新しい発見があるんだと妻は言う。

その日に採れた野菜が、その日に食卓に並ぶ。スーパーから買ってきた野菜と違う。採りたてのものを、すぐに調理して食べる。朝採ったばかりのキュウリの歯応え、採ってから数時間のトマトの甘さ。この体験は、スーパーでは絶対に味わえない。時間が経つにつれて失われていく野菜の味わいが、採りたてにはたっぷり残っている。
妻も料理をするとき、采れたての野菜を前にすると表情が変わる。どうやって調理しようか、どの野菜を先に使おうか、そういったことを考えている表情が見える。時には、採れた野菜に合わせて新しい料理に挑戦してみようかと言ってくる。以前の妻は、冷蔵庫にあるもので済ませるといった感じだったから、随分と変わったものだと感じる。野菜が妻の心も変えたんだと思う。
2人で畑の野菜を食べるとき、妻も笑顔になっている。「自分たちで育てたからおいしいのかな」と言ってくれることもある。その笑顔、その言葉が、毎日の水やりや世話の疲れを吹き飛ばす。それが何よりの報酬だ。
ある日、妻から「メロン、実ができてたのに枯れちゃった」と告げられた。妻も悔しいようだった。毎日、そのメロンが成長していく様子を見守っていたんだろう。ようやく実がなったときは、きっと喜んだに違いない。
その言葉を聞いたとき、言いようのない悲しさが込み上げてきた。妻が毎日、そのメロンの成長を見守っていたんだろう。実がなったときの喜び、そして枯れてしまったときの落胆。その全部が、妻の言葉から伝わってきた。
失敗しても、また新しいメロンに挑戦してみようという気持ちになる。これは家庭菜園を始める前には無かった感覚だ。妻もその気持ちを共有している。失敗は次へのステップなんだと、2人で思うようになった。
妻の姉が時々、遊びに来る。最初は世間話をしにくる感じだったが、最近は家の野菜が目的のようになっている。
「そろそろキュウリできた?」「ねぎ欲しいなあ」。妻の姉からそう言われるようになった。妻も「採り立てのキュウリだから、ぜひ」と嬉しそうに野菜を渡している。姉との会話も弾むようになった。野菜が家族とのつながりを強くしているのかもしれない。

会社の同僚からの評判も上々だ。
僕が採れたての野菜を会社に持っていくと、みんなで取り合いになるほど。「このキュウリ、スーパーのと全然違う」「トマト、こんなに甘いんだ」そんな声が聞こえる。野菜を通じて、会社の人間関係も少し良くなった気がする。
同僚が「俺も家庭菜園やってみようかな」と言ってくれたこともある。別の同僚からは「うちも庭があるから、トマトから始めてみようかな」と相談されたこともある。僕の栽培する野菜が、誰かのきっかけになるかもしれない。それも嬉しいことだ。
妻との日常が変わった。家族との絆が強くなった。仕事の同僚との関係も良くなった。全て、家庭菜園を始めたことがきっかけだ。

失敗もある。メロンだって枯れてしまった。でも失敗から学ぶことがある。来年はどうやってメロンを育てようか、そういう考えが生まれる。新しい野菜にチャレンジするたびに、新しい発見がある。
これからも、妻と一緒に新しい野菜に挑戦していきたい。新しい発見を見つけ続けたい。家庭菜園を通じて、毎日が少しずつ豊かになっていくのを感じる。妻との会話が増えて、家族との時間が増えて、会社の人間関係も良くなって、全部が少しずつ良い方向に動いている。これは、あの日、庭付きの家に引っ越すことを決めたときには、想像もできなかった展開だ。野菜一つで、こんなに人生が変わるんだと思う。これが家庭菜園の本当の豊かさなのかもしれない。


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